「職業教育研究開発センター」という名前は、現代の課題をよく表現していると考えている。なぜならば、空理空論ではなく、地に足の着いた職業教育がうまくいかないということが、現代日本の大きな課題の一つだと考えるからである。
その意味で、この8文字はそれぞれに、大きな意味を持っている。
例えば、「職業」であるが、職業というのは人間にとって最も重要な要素であるにもかかわらず、学校教育の中でも、実生活でもあまり重要視されていない。職業が人生の根幹であれば、それは少なくともそれなりの充実感を感じる、楽しいものでなければならないはずだが、苦行にしか過ぎなくて、それらを味わえるような状況ではない人も多い。最近の日本はともかく、人類の歴史の中では非常に小さい(5~6歳)子から、亡くなる間際のお年寄りまで、働いていないという人はいなかった。言い換えれば職業が全くないという人はいなかった(障がい者もその人なりのできることで働いていた)。つまり、働くということは、その中に人生の楽しみを感じられることで、人生にとって圧倒的に重要なものであった。その意味で、現代社会では、(働けないのではないにもかかわらず)一部働かない人がいたりするが、そういう人には、様々な問題が起きやすい状況にあり、かなり辛い人生になっているというのは、よく見聞するところである。
教育について考えれば、本来、教育は様々な職業で楽しく働けるように育てるのが基本であろう。しかし、日本の教育は、知識を詰め込むことに主眼が置かれていて、人生を楽しむことも、職業の面白さや楽しさもほとんど伝えていない場合が多い。これは、恐ろしいことである。どうやって人生を楽しめばよいのか、職業にどうかかわればよいのかが分からないままに社会に放り出された人たちは、どうしてよいか分からない。仕方がないので、とりあえず目先での糊口をしのぐことしか考えられず、アルバイトで食いつなぐ人生になる。つまり、少し大げさに言えば、教育に失敗すると、未来への希望を持てない人が増加し、結果的にその人の人生の大半が失われ、結果的に国家(日本)が衰退し、(ますます大げさに言えば)人類も衰退していくことにつながりかねない(古い本だが、ジャック・アタリ著「21世紀の歴史」等参照)。
従って、ここで考えなければならないのは「職業」と「教育」をどうつなぐかと接点である。職業教育は、職業に直接つながらない一般的な高等教育や教養教育と違って(こちらは本来、人生の楽しみ方などを教える。)、「職業」で楽しむことができるように支援することである。しかし、何故か、その職業教育の分野は、あまり研究が深められてはいない。
こうなっている一つの原因は、日本では、職業や教育のそれぞれの分野の方々が、自分たちの枠内でしかものを考えず、他領域に首を突っ込まない様にしているからだと言えるだろう。このような問題を超えていく為に、領域を超えた(インターディシプリナリー)研究の必要性の指摘はずいぶん前からなされているが、残念ながら、特に教育に関連しては、なかなかそれが実現していると考えられない。(どういう訳か、発想力が乏しくなっている等々、若い世代に向けての様々なコメントがあるが、それが教育政策の結果としてそうなっているのだとは、あまり指摘されていない。婉曲に表現されている例がないわけではないが、これは何故なのだろうか。)
このような課題に、本質的な問題追求から社会実装に至るまで総合的(統合的)に取り組むというのが、「職業教育研究開発」センターの課題である。もう少し付け加えるならば、職業教育の実践と研究と開発を、きちんと結びつけていくという意味でも、領域を超えた活動が重要であろう。現状での、実践と研究開発が結びつかないというのも問題だし、研究と開発が結びつかないのも大きな問題である。これらを超えて、職業教育研究開発が展開できるかどうかが、このセンターの課題ではないだろうか。
設立の趣旨という意味で言えば、このような意味で、職業教育に関する研究の成果を社会的に実装化していく(開発)ところまで持っていければ素晴らしいと考えている。
その為に、研究を進めていくときの非常に重要な要素は、当然のことながら、一つ目は仮説である。こういうテーマがあり得るという仮説をどう考えるかという気づきが非常に重要である。二つ目は、研究は一般的には一人で行うよりは集団での討議を行いながら、色々な違いを発見しながら、進むことが多いので、(いい加減に、まあ、その場しのぎで適当に済ませるという議論をしていたのでは前には進まない。)同じような関心を持っている仲間たちがそこに居ると言う、研究センターが、やはり必要になってくる。そこで、この職業教育研究開発センターでは研究員制度を取り入れて、多くの方々に登録いただき、共同研究を行えるよう支援していく必要がある。その為に、研究費の調達支援なども課題であろう。さらに、研究発表の場として、研究集会や研究ジャーナルを発行するということも必要となる。
また、気づきから始まる「研究」を学術としても通用する「研究」に仕上げていく為の支援(研修)なども必要だろうし、その研究成果を生かした社会実装へのサポートも必要である。
この職業教育研究開発センターが、以上のような課題に取り組める(発想上の)スケールの大きな仕組みとして、発展していく事を期待している。
センター長(初代) 川廷 宗之
これまでの日本の職業教育は、知育偏重やアカデミズムの高等教育の中で発展が歪められてきたという識者は多い。その指摘を待つまでもなく、職業教育を受ける学生や、教える教員の声価が、一般的な大学の学生や教員に比べると低い。しかし、世界的に職業教育を普通教育と一体的に捉える職業資格枠組みは広がりを見せている。欧州で始まった国際的な職業資格枠組みは今やASEANにまで広がっている。これらの枠組みは、レベルを8段階に設定して、それぞれのレベルにふさわしい職務遂行能力(コンピテンシー)、知識、スキルを明示している。この枠組みは、国際的な労働力移動を円滑化するだけでなく、キャリアパスの明確化を示している。
実はこの職業資格枠組みで研究できるスキルが要求されるのは、レベル7の水準である。これは学歴でいえば修士号取得者に当てはまる水準である。このレベルでは、新たな知識を獲得し、新たな方法を開発し、さまざまな分野の知識を統合する上で、研究及び技術革新の分野において特定の問題解決スキルを持っていることが必要とされる。レベル7では仕事や学習に関して批判的な知識を持っていることも要求される。そして、この研究スキルと批判的知識を持っている人には、戦略的で予測不可能な仕事や学習に対して支援し、監督し、評価するコンピテンシーが要求される。少なくとも敬心学園の教職員は業界の中でそうした目標に向けて挑戦し続けている人が多いといえよう。学園として専門職大学を設けたのも、すくなくともレベル6の学士号レベルのコンピテンシーを担う人々を育てたいという使命を果たすことをねらっているからだといえよう。すくなくともそのためにはレベル7以上の教職員が確保されていなくてはならない。
職業教育を受ける学生が多様化しており、リカレントであるとかリスキリングといわれる生涯学習の機会を深める上でも、職業資格枠組みに沿った教育訓練プログラムが整備されなければならないだろう。18歳の高卒者だけでなく、大学卒業者もいれば、一定の職歴を持った社会人もいれば、外国人もいるといった状況は、今後ますます進むだろう。それに伴って、学生の目指す職業資格枠組み上の位置づけの違いに即して、教育訓練する側に求められる知識・スキル・コンピテンシーの水準も一層明確化されて要求されるだろう。このような動きを取り込んだ学校教育法や私立大学法などの改正が迫っている。
では、現在、日本の職業教育を担っている専修学校や職業実践専門課程や専門職大学・短大や専門職大学院で、教員として働いている人々は、この変革にどのような対応をするのであろうか。例えば、職業教育充実のために実務家教員という概念が取り入れられて、職業教育の高等教育機関では、一定数を確保することが必要になっている。その職務に求められるコンピテンシーや知識やスキルは具体的にはどのように要請されるのだろうか。一般的には高等教育を担う教員と共通して、教育指導力、研究力が求められるが、実務家教員には、加えて実務能力が求められるといわれている。具体的には、実務家教員の「実務の能力」は,保有資格,実務の業績,実務を離れた後の年数等で判断される。専門学校での教員歴そのものは実務業績としては評価されないようである。業界の実務者に対する指導を行った場合や、実務者に広く用いられるテキスト等を執筆している場合は、実務家教員の業績として評価される。その他、企業等でのプロジェクトの企画・立案・運営、コンぺティション・表彰等の受賞歴、現場の指導・監督的な役職、実務に係る講演会・研修会等の講師、専攻分野に係る職能団体の役員、国・地方自治体等の会議の委員等の経験、専門分野に係る資格、表彰や資格の審査経験、学会等での発表、執筆活動などは業績と評価される。
専門職大学等における実務家専任教員には、実務の経験等に加え,大学等での教員歴,修士以上の学位,企業等での研究上の業績のいずれかを満たすことが求められ、「研究能力を併せ有する実務家教員」と称せられる。その中で、「企業等に在職し,実務に係る研究上の業績を有する者」の研究業績は、著書、論文等の学術上の業績だけでなく,実務上の実践知識を形式知化,あるいは構造化・理論化し,様々な形で発表した業績なども含まれるとされている。さらに専門職大学院の専任教員には、専攻分野について、教育上又は研究上の業績を有するか、高度の技術・技能を有するか、専攻分野について、特に優れた知識及び経験を有するかのいずれかの要件をみたすとされている。日本の場合は職業資格枠組みが未整備であるので、それらの要件が国際的なレベル7と言い切っていいのかどうかわからないが、ほぼ同等のことが求められているといえる。
こうしてみると研究業績のイメージはこれまでと異なってきたといえる。むしろ職業教育に従事する教職員は、実践知識を形式知化あるいは構造化、理論化することが期待されていることが注目に値する。それは、具体的なものから抽象的なものへと機能的な推論を図ることであり、個別的な事例を蓄積し、その統計的な分析によって比較したり、相関性、共通因子などを見つけ出したり、分類したり、体系化したり、評価尺度を開発することである。さらにはそのような研究に基づいて開発・改善した事柄が、全国的・国際的なコンペティションで表彰されたとか、業界全体で優れた実践として高く評価されたとかいった成果を上げた場合に、研究能力を併せ持つ教員として評価されるようである。
ただ、やらされ感や損得勘定でこうした取り組みをすることでは人は動かないだろう。そこで、私は日本人固有の「生きがい」という概念を援用しながら、「働きがい」を目指した職業教育研究のスタートを提案したい。図を参照してもらいたい。これは集合関係を表すときに用いられるベン図と呼ばれるものである。「働きがい」は「好きなこと」、「得意なこと」、「求められていること」、「報いられること」という4つの要件が全部そろうと達成される。それが図の中心にある。その周辺には2つないし3つの要件は満たされるが、1つないし2つの要件が欠けている働き方がある。さらにその外側には要件が一つだけ満たされている働き方がる。この図で、自分の働き方で不足しているのは何か。それを解決するためにはどんな工夫が必要なのかを点検してみよう。学生も教職員も、この自己点検がよりいきいきとした職業教育の開発に向かう研究のきっかけになるのではないかと思う。
例えば、一般的に苦汁労働を強いられている人には道楽や余暇を勧める補完策が働きがいにつながると考えられてきた。逆に好きで得意なことだけで成り立つ道楽に身をゆだねている人には、求められていることに応えれば報酬があるという機会(日本でいうアルバイト)が働きがいにつながるかもしれない。介護福祉の分野では、いわば天職観つまり好きではないが、得意であり、求められていることに応えられて報酬もあるという人が結構いる。そんな人にはプロボノというような専門的知識やスキルを活かしたボランティア活動やリンクワーク活動で補完するプログラムがあれば働きがいになるだろう。得意なことで報酬を得ることだけに執着しているいわゆる魂のない専門人には、好きなことと求められていることが合致するペットの世話や園芸などの療法プログラムが働きがいの達成には有効かもしれない。無益感にさいなまれる人には、世の中にはあなたを待っている人がいるということが体感できるような実習機会を設けることが働きがいにつながる。この図からさらに具体的な課題とそこから想定される解決策を構想し、実際に実践してみてその効果を測定し、評価するといった評価研究を進めてみてはどうだろうか。敬心学園の教職員及び職業教育研究開発センター研究員の着手可能なところからの研究促進を心より期待している。
センター長(2代目) 小川 全夫
当センターでは以下のような事業を展開・運営しています。
※下記の中には一部休止している事業もあります。